2020年9月18日金曜日

今更艦これに対する所感など


    此頃艦コレニ流行ル物

    御札 ギミック ブッコ抜キ

    菱餅 サンマ 瑞雲祭リ

    俄ミリオタ 引退者

    カレー 三越 コンサート

    本領ハナルルプロデューサー オ気持チ表明プレイヤー


以上、二条河原の落書ネタを思い付いたのを書きたかったダケ。

以下、ただの落書き。



偉そうな事を語る前に自分のプレイスタイルを述べておく。イベントでのタイムアタックには一切非参加。難易度は全て甲。以前は毎月500位内を維持していたけど、ここしばらくは完全放棄。艦これだけに専念する事はほぼ無く、ながらプレイが常態。もしかしたら一番層の厚い艦これプレイヤーの一人かもしれない。そんな程度。

……実際艦これは既にゲームとしての寿命は過ぎてしまったように思う。なのに、なんでみんな辞められないかと言えば、僕らのナショナリティと複雑に絡み合ってしまっているからだと感じる。


国を捨てられないのと同じ様に、自分の艦隊を捨てられないんだろう。このあたり実は、昔から言われる左翼さん方からの指摘も、あながち的外れではないんじゃなかろうか。


僕も戦史なんて殆ど知らない愚か者だけど、例えゲームを通じてにしか過ぎないとはいえ、色々と知ってしまうと、先人達の思い、犠牲、成し遂げた事、あるいは成し遂げられなかった事、そういうものに対して象徴化されたキャラクターを通して感情移入してしまい、もうゲームそのものの是非とは関係なくなってしまう。


この歴史はそこらの小説や漫画や映画のフィクションがいくら束になってかかっても全く敵わない、かつて実際にあった現実であるという事。「血の滲むような」ではない、実際にたくさんの血が流された、架空ではない圧倒的な現実の物語。「熱い」人間模様だとか、「泣ける」ストーリーだとか、「燃える」戦闘だとか、フィクションで語られる以上の現実がかつてこの国にはあった。


海戦の場合、どうしても無機質な鉄塊の物語となりがちで、感情移入へのハードルが上がってしまう。しかし一方で将棋の各コマのように機能するそれぞれの船は、それぞれの物語性を帯びる。そこで艦船へキャラクター付けたうえで、ゲームを通じた追体験や歴史のIFを想定する、というのは非常に意義あるものだったと思う。(このあたり物語と擬人化というのは、筒井康隆の「虚航船団」などを参照されたし。)


こういう事言うと、左翼さん方からは「戦争の美化」とか言われるんだろうな。僕としてはむしろ、戦争の悲惨さまで込めた感情移入なんだけど、まぁ彼らには分からないんだろう。


ともかく、僕にとっては艦これというのはそういう存在であった。


しかしただ一人のゲーマーとして、ゲーム単体だけを評価するなら残念ながらもはや現状は……。ひたすら手間がかかって煩雑で面倒くさいゲームになってしまった。こればっかりは否定しようがないというのは率直な意見。グラフィックが重量化していくばかりで、ゲーム性が蔑ろにされがちな業界へのアンチテーゼでもあった筈なんだけど、それももはや現状では進歩していない事への方便にしか過ぎなくなってしまった。……というお気持ち表明。


そういうゲーム自体の問題に加えて、もはや枚挙に暇がない諸々の運営の不手際、あるいはよくわからない所で勝手に盛り上がってるオフラインでのイベントなど、いろんな事が重層的になってみんな「うんざり」している現状を嘆く人たちの気持ちにこそ、僕は非常に共感してしまう。(勿論その批判者側にも相応の客観性だとか、マナーだとか、見識だとかが求められるのは言うまでもない。)


ここに角川だのDMMだのC2だの、権利関係や運営主体うんぬんは全く関係ない。それは運営裏方の当人が気にすれば良いだけで、末端のユーザーにとっては、知ったこっちゃない話にしか過ぎない。クレームをつける際の相手先ぐらいは気にすべきだが、それ以外ではそんな事おおよそどーでもいい。


運営にむちゃくちゃな絡み方してるどうしようもないアンチがいるのは確かな様子。一方で、現状のような問題をかなり以前から憂慮して真っ当に批判してきた人たちも沢山いた。しかしそれをなんだか小馬鹿にしてきた風潮は確実にある。どうしようもない輩と、真っ当な批判を十把一絡げにして嘲っている人たちがいるのは全くの事実だろう。


事ここに至るまで、もっと分岐点はあっただろうに。

駄目なものは駄目だと批判することは大事だ、と改めて僕は思う。


艦これに限らず……。


2019年10月22日火曜日

デモンエクスマキナの対人について雑感



戦争映画の名作フルメタル・ジャケットのハートマン軍曹が素晴らしい言葉を残してくれている。

「カマを掘るだけ掘って、相手のマスかき手伝う外交儀礼もないやつ、きっちり見張るぞ! 」

我々は、特にネットゲームでは多くの場合、所詮「ごっこ遊び」をしているに過ぎない。このごっこ遊びは絶対に一人ではできない。相手も自分も、同じ土俵で同じ空気を共有したとき、この無邪気でちょっとガキっぽい遊びが本当に楽しいものになる。

その中で自分だけは絶対にやられない無敵バリアを貼るような真似をしていれば嫌われて当然だろう。ただただ勝ちさえすればいいという価値にガチプレイというエクスキューズをくっつけて、ごっこ遊びをするような相手と遊びたくはない。

ごっこ遊びにはごっこ遊びのマナーがある。これは決して明文化される事はない。暗黙の了解こそが、ごっこ遊びをごっこ遊びたらしめ、そこに初めて楽しさが生まれる。



もちろん、MOBAやカードゲームのような、ルールががっちり決まってるPvPゲームでなら、そのルール内であらゆる手段を用いて勝つ、というのはわかる。

ゲーム自体がそのために出来てるし、それ自体がそのゲームの競技性でもあるからだ(その出来の良し悪しは保留して)


現状、そういったPvPを主眼としたゲームは数え切れないほどある。

FPSやTPSなら
CS:GO、BF、CoD、R6S、Overwatch、PUBG、Fortnite、Apex…

MOBAなら
LoL、Dota、HotS

カードゲーなら
Hearthstone、Shadowverse…

PvPに注力してるMMOなら
WoW、GW2、FF14も?

色々あげればきりがない。

この例示した中には「ごっこ遊び」要素の強い側面を持つゲームもあるので、個人的にはこの中から除外したい感覚を持つものもある。まぁでもそれは今は保留しておこう。

どんなゲームでもいいんだけど、とにかくルール内で全力を出し切るタイプの対人がしたいなら、現状選択肢はもはや過剰に過ぎるほどある。



では、そんな中デモンエクスマキナはどうか。

このゲームは明らかにロボットを操作する楽しさが主体だ。ACにしろ(ACV系を除いて? 未プレイのため不明)、それだけは絶対間違いない。特に現状は対人のルールがガバガバだし各パーツのバランスもぶっ壊れたままであることも特記せねばなるまい。

このゲームにあるのは、本来はある種のロールプレイだ。つまりロボのパイロットというロール自体を楽しむという、勝ち負けだけではない、それ以外の価値観が大きく付与されている。(※ただし、もちろんそれが勝ち負けの重要性を否定するものではない事も付記しておこう)

それなのに現状このゲームで、ただただ勝敗のみに拘泥し、このそびえ立つクソみたいな仕様を全力で用いて、対人戦において勝利を追い求める事が批判されるのは、本来は当然だと僕は思う。

しかし現状の空気を見ている限り、勝ちさえすればそれでいいとする人達が大勢のようだ。あるいはそうではない「ごっこ遊び」をわきまえた人達ほど去っていった結果だろう。

そんなゲームになってほしくはなかったが、もう駄目だろうね。このままでは恐らく僕は二度とデモンエクスマキナをプレイする事はない。

2019年8月21日水曜日

犠牲の価値

個々人の発言にすぎないのでいちいち引用して批判するのは避けますが、ネットを眺めていると、第二次大戦中の日本人の犠牲が「無駄死に」か否か、うんぬんという議論をしばしば目にしました。

僕は大日本帝国悪玉論には断じて加担しないので、特攻隊の方々の犠牲を「無駄死に」だとか、あるいは「特攻を美化するな」と、蔑む人間とは一切立場を異にします。比喩ではなく文字通りに「命がけ」で、後世のため戦った方々を特別尊敬する事の何が「美化」なのか、僕にはさっぱり理解できない。今更この類の愚かな主張など、馬鹿馬鹿しくて批判する事すら価値を見いだせないので、無視します。

少しマシな別の意見では、「無駄か否かは命をかけた当人の意思であって、我々が決めてはいけない」という趣旨の意見もありました。一見なんだか良いことを言ってるようなきがしますが、僕としては違和感が拭えません。

なんと言えばいいのだろう。どうにも「戦後的」な匂いのする、個人の意思を崇高な最上の価値とした捉え方、とでも言うんだろうか。あるいはそうして命を捧げた当人の意思を持ち出すことによって、我々が負うべき責任を回避したいのではないかと感じてしまう。

ありえない仮定ではあるものの、百万歩譲って、かつての戦争のすべてが過ちでしかなかったとして。ではその過ちと犠牲の全てがただただ無駄になるのかといえば、決してそうはならない。失敗は成功の元といわれるように、その過失を糧として我々が活かせる事さえできれば、そのどんな犠牲も一切無駄になることはない。

あるいは逆に、先人のせっかく遺してくれたどんな成功も、我々が活かす事ができず、ただ無為にしてしまうだけであったなら、その時本当にその犠牲はすべて無駄となってしまう。

当たり前すぎる話です。先人の過失も成功も、それに本質的な価値をもたらすのは、受け継ぐ我々であり、それを「当人の意思」なんて言ってのけるのは、先人に対する敬意が根本からスッポ抜け、それを受け継ぐ者としての責任を放棄した、いかにも「戦後的」な幼稚な議論としか、僕には思えない。

受け継ぐ価値は、今後の我々の「ありよう」がその真価を決定づける。それを「当人の意思」と言ってしまっては、我々が先人から連綿と続く重みを、ミクロなものに矮小化し、お為ごかしに、その重責から目をそらしているのではないか、と見えてしまう。

……強く自戒を込めて書き留めておこうと思う。

2019年7月8日月曜日

FF14 5.0ストーリー雑感の雑記


備忘録がわり


FF14の5.0のストーリー、個人的には不満だった。不完全な人間が不完全なまま、ただ生存競争に勝ち抜いただけの事に思える。人間の不完全さを描くのは良いと思うけど、それに「結論」を出してはイカン。あの問に正解はないのに、あれで大団円としてしまってはいけない。

不完全さを問うたのなら不完全なオチにしないと。人間がそこから脱却できたわけではないんだから。読後感の悪い純文学のように。現象的には、ただ暴力的に古代人の生き残りを排除しただけだからなぁ。彼らが今までやってた事と大して変わらん。もちろん自衛という名目はあるけど。でもアシエン側にしたってカルネアデスの板ってやつで、彼らは彼らの生存がかかってる。

神の使徒であったはずの人間が、原罪を抱えてエデンから追放されるというのは古典的なテーマなんだから、それを取り上げる以上、古典的な結論は避けてほしかった。

ダクソシリーズなんかも似たようなシナリオだけど、あっちはきっちり人間の不完全さをそのまま俎上に乗せて、世界を終わらせたからなぁ。まぁゲーム的な制約の多いMMOを同列には語ってはいけないけど。薪の王がエメトセルクで、亡者が現人類ってとこか。そう解釈すりゃ色々見えるかしら。火継ぎエンドがエメトセルクの目的、火継ぎの終わりがヒカセン、火の簒奪者がヒカセンの前世ってとこかな。そういう意味でエメトセルクが、現人類の命をハエぐらいにしか尊重しないのも当然なわけだ。ダクソで亡者達の命を誰も尊重しないように。

ダークソウル3の火継ぎの終わりは、文明の終わりというのを描いた稀有な作品で、本当に素晴らしかったからなぁ。ただシナリオとして好きなのは火継ぎエンドだけど。たとえどれ程弱く衰えても、それが可能なかぎり守り伝えゆく、というのが素敵。そういう意味でエメトセルクに共感する。

もちろん前提として、人間も生き物なんだから生存競争という原理原則は全く否定しないし、そこから逃れられないんだけどね。でも、災厄を防ぐために半数の人間が自ら命を差し出したような貢献できんのか、というエメトセルクの指摘にたいして、暁もヒカセンも答えを出せてないわな。まぁ不可能なんだが。だからこそ、エメトセルクを排除しただけがオチというのは受け入れがたいね。

エメトセルクが背負ってた同胞たちの魂(?)が、今回失われたという事も見なかった事になってるしなぁ。善良たる英雄のヒカセンがアーモロート人の魂は無視するのは、アンバランスと言わざるをえんね。彼らはすでに滅びの運命だったというなら、水晶公が時間遡及までして介入した事も運命の否定なわけで。自分たちの滅びの運命は否定して、アーモロート人には運命を受け入れろというのはダブスタになる。

もちろんだからといって、受け入れて死ね、とは言わない。エメトセルクと戦うのも自衛で、これもカルネアデスの板なわけだ。ただ、結局ここで議論が停滞しているだけで、その次を描けないのなら、拙速な「答え」で物語を完結させちゃいけないね。

2018年10月16日火曜日

本当の「首相案件」

森友学園の問題は、財務省が公開した文章ですべて結論が出たと僕は判断します。

安倍総理に言いたいことは山程ありますが、ソレはソレ、コレはコレ。あの文章を少しでも理解できれば、あの籠池夫妻の肩を持つなんてあり得ないと判断します。別に精読しなくとも斜め読みでもしてみれば、ほんの僅かな小指の先ほどしかないコネクションであろうとも最大限利用し、役所を動かすための梃入れの道具として利用して自分達の要望をねじ込み、更にモンスタークレーマーとして横暴に振る舞った人間の有り様が克明に残されています。

未だにこの問題を引っ張ろうとする政治家やメディア達は、真実や法よりも、明らかに政治的な綱引きや、何かしら別の意図のためだけですね。まぁ、戦略的に時にはそれが必要になりうる事もあるのは事実なので、全否定はしませんが。とはいえその手の人間嫌いですけどね。


とにかくそんな「首相案件」。自らの権力を用いて一部の民間へ利益誘導するように政治的に行政を捻じ曲げるな、という批判。

その批判が事実なら全くそのとおりだと思います。
本当にそんな癒着があるなら猛批判すべきです。
例えば過去には明確に明言した迷宰相がいました。

こちら↓
http://www.sankei.com/premium/news/141225/prm1412250006-n2.html

 現行制度の骨格が固まったのは23年夏。当時の菅直人・民主党政権は、東日本大震災の対応などから退陣を迫られ、退陣の条件に再生可能エネルギー特別措置法案の成立を挙げた。 
「国会には菅の顔だけはみたくないという人が結構いる。本当に見たくないのならば早く法案を通した方がいい」

動画はこちら
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14757242

全部見てはいないですが(マジで気持ち悪い動画なので)、目についた点だけ。


38:50頃
主催者とおぼしき男性の発言「今日はあの二部構成にしておりまして、一部構成は孫正義社長のえーお話をお伺いしまして、えー私達のエネシフナウ・ジャパンの主催、第二部は実はあのー自然エネルギーを拡大しようという、民間団体の25団体の主催です。えーこういう民間団体の主催に総理がおいで頂けるという事は画期的な事だと思います。えー多くの今回の主催団体の方非常に喜んでいおります。」
45:35頃
孫正義「この土俵際の粘りで、ね、この粘り倒して、この法案だけは絶対通してほしい!
47:50頃
菅直人 「『菅の顔だけはみたくない』という人が結構いるんですよ国会の中には。そういう人達にですね、言おうと思うんですよ。『本当に見たくないのか、本当に見たくないのか、本当に見たくないのかって。それなら早いことこの法案を通したほうがいいぞ』とね。」

明確に孫正義と、菅直人自身が意向を明言していますね。それを政治的にゴリ推したまさに「首相案件」でしょう。

一民間企業であるソフトバンク含むその他一般企業が強烈に推進する事業の会合を主催し、そこに現役の総理大臣が参加し、こんな発言をしていたという事。

これを首相案件と呼ばずになんと呼ぶのか?
政商と呼ばずになんと呼ぶのか?

モリカケに不正があるというならその批判もすればいいでしょう。しかしもっと巨額の利益をごく一部の民間団体や企業へ生み出した、この再生可能エネルギー固定価格買取制度に、一部の企業の意見が大きく反映され、時の総理菅直人が明確に「首相案件」である事を明言しながらでゴリ推した法律をなぜ批判しないのか。行政に首相の意向が加味される事がそれほど問題なのなら、これほど記録にはっきりと残った「首相案件」、どうぞどうぞ盛大に叩きまくってください。

モリカケの一連の事業に、大きな政治的な流れや動きとして、首相や与党の意向が汲まれたものは絶対にあったと思います(行政が与党の意向の影響を受けないというのはありえないため)。

行政のベクトルが総理の影響を受けた事態、それそのものが問題なのではなく、その影響が
「客観的事実や科学的根拠に基づいたものになっているか」
「何らかのイデオロギーに基づいた歪なものではないか」
「一部の企業や団体の意向を受け国民を蔑ろにしてはいないか」
という様な問題を孕んではいないか、という事こそが本質になります。

FIT(再生可能エネルギー固定価格買取制度)の問題は今更述べるまでもないでしょう。挙げればキリがないですが、売電の権利だけ取得して太陽光パネルの価格の値下がりを待つような悪質な業者(高値の買取価格を受ける権利だけ取得して実際の太陽光パネルの設置は、量産効果で価格が下がるまで放置しておくと初期投資を大幅に下げられる)や、大多数の国民は費用負担が増えるのみで、ごく一部の層だけが利益を得たという事、国民からそうして税のように徴収された調達費用が参入してきた外国資本へ流れるという事、あるいはそもそも太陽光パネルが乱立したことにより山林が伐採されかえって自然破壊が進んだ事実、それに伴う地すべりや水害。先般の台風でも様々な被害が発生しました。原発の問題よりも、よっぽど直近の問題として太陽光パネルが様々な被害を起こたのは事実です。

しばしば「政治は結果責任」と言われるように、政治家の動機や意図がどれだけ御大層な立派なものであったとしても、その結果国民が不幸になれば批判され責任を問われる事があるように、菅直人の「首相案件」の実態は一部の太陽光事業者に利益をもたらしたばかりで、大多数の国民にとっては間違いなく大損害であります。

モリカケに一ミリも問題がない、とは僕は決して言いません。大きな政治的な流れに現政権の方向付けがあったであろうとは思います。それを批判するのもいいでしょう。しかしそれと同時に、この菅直人の「首相案件」、あるいはそれと協調して積極的に活動していた政商孫正義を、それ以上に糾弾し弾劾すべきである、と思います。

2018年4月10日火曜日

筒井康隆短編「死にかた」と西部邁

筒井康隆の「死にかた」という短編について。

10人ほどのオフィスの一室に何の前触れもなく、金棒を持った鬼が現れて始まる。

鬼は何の感情ももたず、ただ無表情に一人ずつ金棒を振り下ろして殺していく。その際それぞれみんな様々な「死にかた」を演じる。

最初の一人目は何かの冗談かと思って無視して殺される
二人目は鬼の非道を非難して殺される
三人目は鬼を茶化して誤魔化そうとして殺される
四人目は鬼なんかいないフリで逃げようとして殺される
五人目は鬼に色仕掛けで命乞いをするも殺される
六人目は隣室から惨状を嗅ぎ付け面白がってたら殺される
七人目は鬼に殺されるぐらいならと自殺する
八人目は自分を後回しにしてくれと懇願して殺される
九人目は自ら鬼に首を差し出し、鬼を激怒させ殺される
十人目は鬼を懐柔したり、他に責任転嫁しながら殺される

最後に残った「オレ」は泣き叫んで小便もらしながら助けてくれと精一杯命乞いをする。そうすると鬼は「やっとまともな反応を示すやつを見つけた」「死にたくないといってまともに命乞いをしたやつはお前だけだよ」といって呵呵と大笑する。

恐る恐る「オレ」は自分だけは助けてくれるのか?と尋ねると、鬼は「いや。やっぱり殺すのだ」といって金棒を振り下ろすところで終わる。


西部邁の自裁を、「偉そうに豪語しながら一人で死ねなかった臆病者だ」とか「死ぬ大義を語ったくせに、最後に人に迷惑をかけて死んでいった」とか「かっこ悪い一人で死ね」とか「自身の家族や幇助者の家族のリアル生活をぶっ壊しやがって」とか「あの死に方の思想に価値がない」とか「寂しがりやのメンヘラジジイ」とかまぁみんな色んな事を言ってるんだけども。

どれもこれもまったくもって度し難いと断言する。死なんてのはこの鬼のように、暴力的で、一方的で、にわかに、否応なく、逃れようもなく、突然眼の前に降って湧くもんだ。

それをどうして、どいつもこいつもこんなに西部邁を馬鹿にできるんだろう。自分にも、いつかこうして理不尽に鬼に殺される日が来るのだ、と自分に置き換えて考えられないんだろうか。彼らは自分に死ぬ順番が回ってきた時、西部邁よりどれほど立派に死んでみせるんだろう。

その「死にかた」は如何程か。

2018年4月8日日曜日

偶像・西部邁 その2

http://best-times.jp/articles/-/4570 より引用

藤井 京都学派の哲学者、西田幾多郎の哲学「絶対矛盾の自己同一」も適菜さんがおっしゃったことと同じです。 日本的に言うと「和をもって尊としとなす」ですし、西欧でも「矛盾との融和」の力を「愛」と呼んでいる。

適菜 ヤスパースも言っていますが、哲学は答えを出すことが目的ではなく、矛盾を矛盾のまま抱えることだと。知に対する愛なんです。


「絶対矛盾の自己同一」
「矛盾を矛盾のまま抱えること」

ものすごく好きな言葉です。

西部邁がその主張と矛盾した最後を迎えたとしてなんだというのだろう。矛盾した西部邁の存在を抱えながら、それを受け入れて評価して次へつなぐ事が「保守」だと僕は思う。現実的に刑事上(形而上ではなく)の問題だとかは、そりゃあるし、良いか悪いかで言えば悪い事なんだろうとは思う。

だからってなんだというのだろう。人間は矛盾した存在で、それを抱えて生きるのが保守的だと、僕はむしろそう教わった。画一的な答えを出せない、出しようがないから人間で、それを求めるのは革新や設計主義の類だ、と。無謬な西部邁像を最後まで求める事こそ妄信的な側面が潜んでると思う。

削除されたけどキャッシュに残ってた動画から、西部先生最後のセリフの書き起こし。

人間はやはり、たった1回の人生で、他愛の無い人生ではあるが、まぁまぁ自分では納得できる方に近づけていこうと、いう方を選ぶもんですね。よりより基準・規範があるはずだ、と。結局一生かかってもそれは「これですよ」というふうに分かりやすくは示せないもんだろうけどね。でもそれを求めて、喋って書いて喋って書いてしているうちに、ほんっとに幸いなのは死ねることなんだ。これは後俺ね1000年同じことやれと言われたら「もうお願いですから死なせてください、もういいんです」と(笑)

絶対神や仏には近づけない。近づけば近づくほど、神と仏は遠のいていく。まぁ人間とはそういうもんだというね、当たり前の自覚の元にやれば、日本社会もねこんなギスギスもう、子供の騒ぎ、愚かしい状態から抜け出られるであろう。しかし、残念ながら抜け出ることは不可能であろう、と。結局人間はこういう事を今後ともこういう事をやり続けやり続け…。という事で終わり!


絶対的なものを示すことも、完璧な終末を遂げることを出来るのも不可能だし、自身がそうあれないように、この社会も矛盾を抱えながら続いていくし、そんな矛盾を抱えながら生きて死ぬ。

そういう事だと僕は理解します。