2017年2月26日日曜日

聲の形 石田将也

※ネタバレあり注意
映画か原作を既読の方のみ御覧ください。
ストーリーのコア部分まで触れています。


次はもう一人の主人公、石田将也についてです。彼についての世間の評判も、なかなか酷評されている面があるようでした。概ねが、あれだけ酷いいじめをしていたのに簡単に許されてしまうのはおかしい、というもののようです。では、本当に簡単に許しを得られたのか、書いていきたいと思います。




罪と罰


西宮側からの視点で石田をどう見ていたか、という解釈については前回の記事で触れました。今回は石田側からの視点です。普通に原作を読んでさえいれば、割りとすんなり理解できる話ではあろうかと思います。

前回に少し追記すると、西宮は石田の小学校へ転校する前から常にいじめられ続けており、西宮にとって石田は「自分をいじめた沢山のうちの一人」でしかなかったようです。ただしその記憶としては鮮烈に残ったようですが。

石田視点の作中では西宮視点が見えないため、そのあたりが描かれません。手話教室で石田と再開するまでの西宮にとっての石田はその強烈な人生のうちの一コマにしかすぎなかった、という事です。そのあたりも石田をあっさりと許してしまったと見えてしまうのに繋がるのだと思います。




「罰が足りない」



では西宮ではなく、一体誰が石田に罰を与えたのか。単純な話で、「石田自身」「その身の因果」です。


第38話
自虐的かつ自罰的に、自らの罪と罰を受け入れる



第6話
「ああ…だめだ…
まだ…足りてない
足りてない足りてない足りてない
罰が…死ぬための資格が…」

「死ぬための資格」というのが若干分かりづらいかもしれません。このあとに自殺する事を周到に計画だててた石田にとって、罰を受けずにただ死ぬだけで己の罪を帳消しにして逝く、という自分を許せなかったと思います。




「インガオーホー」


第38話
もう一つの作中で頻繁に繰り返されているのが、「因果応報」です。これは作中でかなり明確に、キャラクター達の逃れられない運命として描かれています。第5巻、橋の上での騒動は、植野が「インガオーホーなんてクソくらえ!」とその因果に戦いを挑み石田もそれに乗るものの、その因果と運命には逆らえなかった為にあの致命的な結果を招き、そして石田はさらに罪を重ねてしまいます。



第39話

その己を罰するために、石田は真柴に自らを殴るように言います。「他人様」である真柴から罰を受ける事を望んだのです。この罪と罰もまた作中でひたすら繰り返されます。

ちなみに、この「罰を与える救済」というのは、オウム真理教の有名な「ポア」思想です。本来はチベット密教の概念らしいですが、それを都合よく解釈し「罪を重ねる前に殺すことで、その魂を救済する」などという悍ましいものへと変質させました。「罰を与える救済」は本来神仏が行えばこそ、救済にもなりうるものでしょう。しかし、人間が人間にこれを行うのは非常に悍ましく恐ろしい思想です。
(余談ですが、さりとて私は死刑反対派ではないです)




救済




第13話

そしてこのセリフ。たまらなく大好きなシーンです。かなり大胆な発言なのですが、その自覚すら無いほど彼は本心を叫びます。最終的にはこのセリフそのままに石田は己の命を賭けて罪と向き合い、己の命を賭けて償います。石田は自殺しようとした西宮を助け、その対価として自らの命を運命へと差し出しました。そこまでしてようやくある程度の救済を、石田は得られます。

チョロいヒロインが、いじめっ子をちょっとした贖罪で許してしまう、そんな都合の良いラブストーリー、なんて甘い物語では決してありません。




総評


石田は決して、安易な救済などされていません。正に命を賭して罪と向き合い、それを投げ捨てた後、最後にいくらかの救いを得ることができました。いじめの罪と罰という側面だけで聲の形を語るなら、「いじめはその生命をもって償えば、赦される……かもしれない」です。

決して、お涙頂戴のご都合主義物語などではなく、強烈な罪と罰と、その為の因果応報が描かれます。その苦しみの中で失敗しながらも足掻いていく、そんな石田が僕には愛おしくて、同時に眩しくてたまりません。

2017年2月24日金曜日

聲の形 西宮硝子

※ネタバレあり注意
映画か原作を既読の方のみ御覧ください。
ストーリーのコア部分まで触れています。


聲の形という作品は、賞賛する声もあるものの、一方かなり酷評されている面も見受けられます。私の意見は文学史に残る大傑作だという認識です。漫画という媒体で書かれているものの、その中身は紛れもなく一級の文学作品だと思いました。

そんな聲の形が酷評される点について書きたいと思います。



西宮硝子は聖人なのか


最も批判されがちで、かつある一面の妥当性があるように見える批判が「西宮硝子が聖人すぎる」という種の批判でした。自分をいじめていた相手が少し反省したからといって、簡単に許してしまって気持ち悪い…という趣旨のもの。映画評論家の町山なんとかって人すらこんな批評していて、残念でしたね。曰く、「無垢な聖人として障害者=純粋・善といった固定観念で書かれている」…云々。評論を生業とする人間がこの程度なのか、と思います。

確かにそこはわかりづらい点があります。そのあたりは、前回の記事で書いたとおり、ある程度作者の意図したものと思われます。しかし、よくよく読み込むと、西宮のその理由も動機も全て作中に現れているのを理解できます。


類似性その1

読み解く上のヒントが、作中でひたすらリフレインされる石田将也と西宮硝子の類似性が一つのポイントです。

・石田将也
小学生時代に、西宮いじめの積極的先導する役割っだったのは事実です。しかし教師までも含めたクラス全体もまたそのいじめを容認し、全員がその咎の一端を明らかに担うべきものでした。それをいじめが発覚した際、担任教師がその保身からその全ての罪を石田におっ被せてしまいます。そして、石田自身もそれを受け入れてしまいました。さらにその後もかつての親友たちから今度は石田がいじめられるという経緯などを経て、己の罪ではないものまでも、自分を苛み続けるという人間になってしまいます。

・西宮硝子
その生まれながらの障害から、家族の問題、クラスの不和、佐原の不登校、その他ありとあらゆる事を「自分のせいで周囲の人を不幸にしてしまう」と、彼女もまた自分で自分を苛み続けます。それらは作中でひたすらその描写が繰り返されます。



類似性その2


それと同様に、彼ら二人は実は相当な向上心をその内側に湛えた性質も持ちます。

・石田将也
己の罪と真正面から向き合い、独学で手話をマスターし、更にまさに己の命を賭けて西宮への贖罪を果たします。この世の中に一体これ程までに自己の罪と向き合い、それを己の生き様に昇華させる事が出来る人間がいるでしょうか。(もちろん自分自身にも自戒を込めて書きます)

・西宮硝子
聴覚障害を持ち、相当にネガティブな面があるものの、積極的に友達を作ろうとします。筆談ノート(重要アイテム)を介して会話をしクラスへ溶け込もうとし、まさかの合唱コンクールへの参加までします。ある種の相当に強靭な精神と意思が見て取れます。


「友達になろう」


そして、小学生時代、西宮は石田に致命的に傷つけられてしまいます。筆談ノートが石田によって池に投げ捨てられたシーンで、西宮は手話で「友達になろう」と伝えていました。たとえ自分をいじめていた相手であろうとも、ノートで会話を試み、更にそのノートを石田に取り上げられても、なんとか握手や手話でメッセージを伝えようとします。


まさに西宮の向上心の一場面であります。しかしこれは石田のみに対してこの「友達になろう」というメッセージを伝えていたわけではありません。作中は石田視点がメインのためあまり書かれませんが、西宮は他のクラスメイトとも友達を作ろう、向上しよう、と努力しています。

しかし、それらは全て拒絶され、更に石田によってノートを池に投げ捨てられてしまい、それが西宮にとって致命的なものとなり、結弦に「死にたい」と告解したシーンへとつながります。その際重要なのは、一度は池に入ってまでノートを拾い上げますが、西宮はそのまま再度捨ててしまいます。
切っ掛けは石田ではありますが、西宮は自身の意思で、その象徴たる筆談ノートを池にすてたのです。

西宮はひたすら「普通であろう、友達を作ろう」と向上していました。しかしそれらは、全てが誰にも届かずに一旦終わってしまいます。

そして石田もまたその後己の罪を自覚しながら強烈な自己嫌悪を抱き続けます。


筆談ノートの意味


原作2巻の冒頭、その石田が西宮の手話教室を訪れます。そこで作中で最も重要なシーンの一つ、あの石田が
・筆談ノートを持ち
・友達になろう
というメッセージを西宮へ伝えます。

それまで誰にも伝わることがなかった「友達になろう」というメッセージと、それを象徴する「筆談ノート」。これを石田が持って現れた。ここまで把握できれば理解できるのではないでしょうか?

誰にも届かず、筆談ノートと共に池に捨ててしまった西宮の思いそのものの原型、あるいは西宮の魂の形とでも言うべきものを携えて現れた石田。これが西宮にとってどれほど大きな意味があったか。


「一度諦めたけどあなたが拾ってくれたから大事」
そして原作2巻、このセリフです。
川に筆談ノートを落とした際の西宮のセリフとその表情が示すもの。もうこれ以上は説明不要ですよね。

※本題から外れるものの、少し解説しておくと、その大事であるはずの筆談ノートが、その後どういう経緯なのか結弦の手に渡っています。つまりノート自体の物質的価値は、西宮にとってそれほど重要ではなく、ノートと共に石田によってもたらされた概念と象徴とその意味の方が、西宮にとって大事であったのだろうと思われます。


その後


これ以上は蛇足になるので、あまり触れないでおこうと思いますが(是非もう一度作品を読み直してください)、少しだけ追記すると、花火での場面、なぜ西宮が自殺しようとしたのか。

簡単に触れますと、石田が持ってきたものは、「一度は捨てたはずの希望」「その表裏一体となる絶望」ももたらしたためです。



総評


以上、ツラツラと西宮硝子の内面に絞って書きましたが、この作品は本当に素晴らしいと思います。是非深く読み込んで頂きたいと思います。

松本人志 大日本人

※ネタバレあり注意



松本人志が監督した「大日本人」という映画がありました。世間での評判は散々だったそうで、相当な酷評を受けたと聞きます。その感想をざっとピックアップしてみると、不愉快だ・馬鹿にしている・全く笑えない・面白くない・気持ち悪い…等々といったものがありました。

そういう批評になる気持ち、ものすごく理解できます。理解できるのですが、その上でこそこの大日本人はとんでもない名作だと主張したいです。

概略としては、松本人志が演じる主人公大佐藤大が、獣(フレンズではないです。ジュウと読みます)と呼ばれる巨大生物が都市に現れ、街を破壊したり、都会の真ん中で交尾をしたり…、なんてのから街を守るという粗筋です。大佐藤大やその他一般市民へインタビューをしたりその風景を映す日常パートと、大日本人として変身し戦うコント要素の強い特撮物パートとに別れています。

その獣は明らかに自然災害や、外敵のメタファーであることや、劇終盤ででてくる北朝鮮由来の獣の進行、それを撃退したアメリカチックなヒーロー(大アメリカ人?)…このへんの解釈は、見ればわかるので敢えて触れません。今回主張したいのは、それとは別の側面です。

前者のインタビューパートに対して、不愉快だとか馬鹿にしているという評価で、その特撮パートが笑えない・面白くない、というのが概ねの評価のように見えました。笑える/笑えない・面白い/面白くない、というのは個人的趣向が大きいですし、後者の特撮パートは評論を避けます。

今回は前者の日常パートについて述べます。


如実に写しだす鏡


あまり良く知らないのですが、スマホのカメラ系アプリも相当進化していて、直接スタンプを押す機能だけではなく、顔のシミやシワなどをぼかしてくれたり、目を大きくしたり等といったものがあるそうですね。つまり、そう在りたいと思う自分を写してくれる鏡なわけです。

翻って、大日本人の印象に残った日常パートをざっと紹介すると

・生意気な口の利き方のインタビュアー
・傲慢でわがまま放題のマネージャー
・獣が現れて、街が破壊されているにもかかわらず、呑気な市民達
・巨大化した大佐藤の体に沢山掘られたスポンサーロゴと、その為の制約
・国を守っているのに、迫害されている大佐藤
・さらに大佐藤が過失で殺してしまった乳児の獣を追悼する集会
・そしてそれを扇動をしていたり、私腹を肥やしているマネージャー
・別居中の妻と娘は、大佐藤の子供として、いじめられている
・そしてさらに病み続ける大佐藤

これら、例示するのも面倒になるほど、沢山あります。虚心坦懐に見ていただければわかるのですが、現在の日本人の歪さを如実に映し出している鏡なのです。

そんな日常パートが、気持ち悪い、不愉快という批評…。
あぁ…。
その気持ちわかりますよ…。でもね…

「テメエのツラが曲がっているのに鏡を責めて何になる」

(バトー/映画 イノセンス)



検証部 コメント返信

https://iza-yoi.blogspot.jp/2017/02/blog-post_21.htmlのコメントへの返信
長くなるのでこちらで

>> 『南条情報』が果たして「検証部に帰属する内部情報」と言えるのでしょうか?

「検証部が南条氏というルートで仕入れた情報」を検証部の内部情報と呼ぶことは何も問題ないと思います。南条氏ルートで仕入れた、という事まで込みで検証部機密になりますので。その元の角川人事異動情報(という虚言?)は角川の内部情報になるでしょうけど。

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>> 果たしてこれが「真っ当な思考」でしょうか。
>> 本気でそう言えちゃいますか?

曲解と言わざるを得ません。動機と手段を混ぜないでください。内部情報が漏れた場合それ以上広がらないようにするモチベーションを持つ事自体はまったく正常です。

「動機」は妥当性があり
「手段」が狂ってる

と非常に強く強調してます。

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>> これは実在しますか?
>> 最初から「秘密である(守秘義務と責任を負う)という双方の合意がなされている」あるいは「具体的に合意した文面が存在する」と錯誤されてはおられませんか。

念書にサインさせられたのは別件の方で、びいかめ氏は書かされそうになった、でしたか。微妙に間違えてましたね。そこは記事を訂正します。

-----------------------
>> 結託疑惑については、検証部中枢連中の頭の中ではもっと前の段階でとっくに固まっている筈ですよ。
(中略)
>> 「擁護したから結託してると見做した」は時系列が全く逆で、その解釈で言えば『結託していると見做されて一緒に検証部の害意に晒された相方を擁護した』のが正解でしょう。
(中略)
>> 「びいかめ氏に責任をとらせ金銭的な賠償をさせる事は決定していた」と考えられます。

確かびいかめ氏とよー氏は元々の付き合いがあるんですよね。遡って行くなら、そこから一つのグループとして検証部は見ていたと解釈すべきになりますね。そうではなく、私の「結託」のニュアンスとしては、

『検証部が解釈したのは「びいかめは口頭とは言え守秘義務を負うことに同意したため、自分ではリーク出来なくなった為、よーの口を使い "結託" してリークしている」という趣旨であろう事』、ということを私が解釈して「結託」と纏めて書いています。

馬鹿馬鹿しいほどまどろっこしい表現になる上、これも瑣末な事だと思いますので訂正する必要を感じません。

そもそもご自身も
「筈ですよ」「正解でしょう」「考えられます」
と仰るように、類推してますよね。解釈の違いと考えます。

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>>上記は結託なんて生易しいものですらない曲がりなりにも社会人が考えたとは思えないほどの保証人制度も真っ青なトンデモ理屈であり悍ましい思考ですよ。

自分でも書きすぎたかなと思うぐらい強調して書いてるんですが、検証部のしでかした事は本当に悍ましく思ってます。検証部を擁護していると思われたくないので、冒頭からその旨書いてますし、何度も何度も強調してます。

「その動機に妥当性があろうとも、それぞれの過失スパイラルが積み重なることによって、とんでもない結果へとつながる事がある」という趣旨で書いてますので、よく読んでください。

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>> 『結託していると見做されて一緒に検証部の害意に晒された相方を擁護した』のが正解でしょう。

「見做され」る受け身となるのは、よー氏であり、文脈上の解釈もよー氏側からの見解ですね。誰の主観からかが重要なので、軸をずらさないようにお願いします。私は「検証部側からはそう見えたであろう」と言ってます。

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>> 『その辺りの事情を知らない』という文言が入るのは不可解です。

「実際のその辺の事情を知らない」は検証部の内心を知らないという意味では言っていません。「よー氏とびいかめ氏がどの程度連絡を取り合っていたか知らない」という意味です。

「よー氏とびいかめ氏が実際にどの程度コミュニケートしながら事に当たっていたのか知らないので言及しないが、検証部にはそう見えたであろう」という意味です。しかし確かにどちらとも取れる表現になってますね。その旨修正します。

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>> 自分で「私はヨクシラナイトです」と主張しているようなものなのでそうでないなら余計な誤解を与えてますよ。
>> 穿った見方をしますと「後から突っ込まれた時の為の予防線を予め張っておいた」ように見えてしまい、批判を受けてでも(反撃などのレスポンス含め)自信を持って外部に主張したい事ではないのかな?という印象を与えます。

あなたが受けた印象に関して、同様に私も端的に印象を申し上げると、「あれだけ一生懸命書いたのに全然伝わってないんだなぁ」と思いました。

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>> 対して検証部視点ですが、脅迫事件のあった一両日中にかなり変移しています。
>> 最初(びいかめ氏とのいじ氏がサシで通話してる時)は『検証部(びいかめ氏含む)vsよー氏』だったものが
>> 検証部中枢談義を挟んだ二回目の通話が始まるや否や、のいじ氏の態度が一変して『検証部vsびいかめ+よー』となり最終的に南条氏ぐるみでも『検証部vsびいかめ(よー)』となりました。

あなたの先程の
>> 結託疑惑については、検証部中枢連中の頭の中ではもっと前の段階でとっくに固まっている筈ですよ。
という主張と矛盾してるのではないですか?

なんだか微妙な差すぎて、あなたの主張が理解できません。細かい時系列は記憶してませんが、その変遷があっても無くても、私の論旨に影響がないと思います。


-----------------------
>> 事実として一枚岩ではなかった「検証部」を団体の枠組みで語ることも「vs」という対立の表記も細かい部分で誤解を招きかねないものであることを付記しておきます。

個別には、検証部の面々において色々意見あるでしょうね。今回はそれらには言及してません。

VS表記については、文章表現上の分かりやすさを旨とし、加えて今更検証部とびいかめ氏が激しい対立をしていた事を仔細に配慮しながら表現する必要を感じなかったので、分かり易くそのまま書きました。問題のある表現だとは考えません。


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以上、全ての指摘にお答えしたつもりですが、以下一番重要なので強調して書かせてもらいます。率直に言います。

私が言いたいことは、
「この一連の騒動からは、そういった人間の魂にある一寸先の闇を自覚しそれを恐怖すべきだと、強く思います。」 
の部分のみです。

この結論が破綻するような間違でもない限り、申し訳ないですが、私はそういった事象の微妙な違いを議論する意味を見出せません。検証部問題時系列表を作っているわけではないので。

2017年2月21日火曜日

検証部

※「艦隊これくしょん」というゲームの、とあるユーザーグループのしでかした騒動についての記事です。ご存知ない方は読み飛ばしてください。


予め申し上げますが、検証部を擁護する気は皆無です。彼らは本当にクソッタレ集団だと思います。しかしそれほどまでに狂うに至る経緯には、斟酌するものがあると考えます。

結論から言うと、恐らく多くの人の認識は

検証部  vs  びいかめ

という構図で見てると思います。しかし検証部側からみると

検証部  vs  びいかめ+よー

と考えている(いた)はず。その齟齬により問題が大きくこじれた主因になっているように感じます。

A 検証部
B びいかめ(+支援者)
C よー

という3群があるところを、

検証部面々は「A vs B+C」
多くの人は 「A vs B と、訳知りの半当事者 C」

まとめるとこういう構図です。

要は検証部面々は「よーとびいかめが無茶苦茶にしていった」と認識していたという推測です。彼らとしてはそれに対する自衛をしていたのだという主張をするはず。棚村弁護士のいう「相手が相当悪い」ってのはそれを指しているのでは?(ただし、私は法律の知識はないため、法的問題と、弁護士としての倫理等については言及しません。)

実際にびいかめ氏とよー氏が結託していたかどうかは置いておいて、南条情報リークを受けたよー氏が確かにかなり掻き回したのは事実だと思います。検証部が落とし所を見失った切っ掛けはココが始点と見えます

それ以前にびいかめ氏がサインさせられそうになった、100万の念書というのも、南条情報の守秘というのが最初の動機です。その念書の正当性と内容は既に狂気であるものの、動機自体は理解できます。内部情報の無秩序なリークを防ぎたいというのは真っ当な思考です。ただし何度も言いますが、その手段は狂ってると思います。

そしてよー氏は、びいかめ氏が自分へ南条情報リークをしたという事により検証部から念書の強要をされそうになった事への対抗手段として、びいかめ氏を擁護するために、南条情報等を小出しに表沙汰にし始めます。これを「よーとびいかめが結託している」と見なした事自体は、致し方ない面があると思います。その検証部の内心と経緯には斟酌する余地があると思います。実際のところ、びいかめ氏とよー氏がどの程度一緒に行動していたのかは私には、その辺りの事情を知らないので言及しません。あくまで、検証部からはそう見えたであろう、という解釈をしています。

※結果的にそれら南条情報は虚偽だったと(南条氏本人の発言により)されてはいますが、それはこの時点では関係ないです。当事者の皆がそれぞれその情報を信じているので、この時点ではその情報に機密的価値があるためです。

「A 検証部の過失」については
今更言うまでもなく、問題だらけの集団。

「B びいかめ氏の過失」については
よー氏へリークした事

「C よー氏の過失」については
自己とびいかめ氏擁護のためとはいえトラブルを助長した事

※びいかめ氏に関しては、検証部と事前に守秘義務に関してどのような会話がなされていたか分からないので、どこまで過失かどうか不明ではあります。またのいじ自身が、びいかめ氏同様にリークしていたという話もありますが、今回は触れません。

検証部面々の何が言いたいのかよくわからなかった自己弁護は、彼らがB+Cの構図で見ていたと解釈すれば、その意味が見えてくるはず。南条情報は虚偽(だったと思われる)だし、検証部のしたことは何もかもがクソッタレな事ばかりです。しかし、その動機と経緯には、斟酌できる余地がないわけでは無いと思います。(何度もいいますが、それとは別に彼ら検証部は独善的で客観性を持たない狂った集団であったことには全く同意します。)

つまり、ABC三者三様の過失スパイラルにより、結果としてこの事態に至ったのだと見えます。もちろんその過失割合と事後対応において、各方に雲泥の差があります。その点においても、検証部は正にクソッタレ集団だと思います。よー氏は、火に油を注ぎそのまま何ら責任を取っていない為に次点で過失割合があると思います。びいかめ氏にも過失がありますが、その後のあらゆる面で誠実な事後対応されているので相対的にその責任はほとんど無くなった思います。(部外者の自分が言うのはおこがましいですが、個人的感想として述べます)

特別に強調しておきたいのですが、びいかめ氏とその支援者を批判する目的で書いてはいません。あの一連の騒動において、検証部という問題だらけの集団と対抗するという点において非常に重要な事だったと理解しています。また、「よー氏を糾弾すべきだ」という意見でもありません。ただ問題を俯瞰する際に、彼の要素を加えて観察するべきだ、という意見です。一応言及しますが、検証部をこれ以上吊るし上げる意図もありません。ただし、彼ら自身が自ら弁明と謝罪を行える下地になるといいなとは思います。

そして、私自身も含むその他部外者がこの事象から感じるべきは、検証部面々の振る舞いに義憤を募らせる事では無いと断言します。

あえて彼ら個々人のパーソナリティには触れませんが、元々の彼らが特別に理性も良心も常識も道徳にも欠けた、人品骨柄の劣る人間だったとは思いません。

(※ただし暴行やら恐喝やらで逮捕されるような奴を除いて)

恐らく、どこにでもいる普通の人間だったはずが、ボタンの掛け違い、誤解の積み重ね、他者の過失、己の過失の認知的バイアス、あるいは認知的不協和…等々、更にはその誤謬を増長させるリーダー、補完する監修者の存在、といったものを積み重ね、本来の人間性から逸脱し、暴走してしまったものと見えます。極端な例を上げれば、ナチスや、オウム真理教、あるいは角田美代子の一連の事件等々、過去にもそういった事例は枚挙に暇がありません。

どの事例でも、どこにでもいる普通の人達が、所属する組織が徐々に暴走するにつれ、組織への帰依と責任と同調から理性を摩耗させていき、最終的にとんでもない大犯罪集団へと帰結してしまったものです。

この一連の騒動からは、そういった人間の魂にある一寸先の闇を自覚しそれを恐怖すべきだと、強く思います。

2017年2月20日月曜日

映画 聲の形

※ネタバレあり注意


2016年9月に公開された映画 聲の形という作品があります。原作が本当に素晴らしくて、そちらも書きたいと思いますが、今回は映画のほう、公開時に問題となった事柄について触れたいと思います。

聴覚障害を作中の要素に取り扱った作品ですが(メインテーマではありません。あくまで舞台装置の一つ)、その公開時に字幕版の上映の有無や頻度について、批判される事がありました。



聴覚障害


曰く、聴覚障害者がテーマなのに肝心の聴覚障害者向けへの配慮のない上映しかない、という類のもの。字幕上映が封切りと同日ではない事だったり、上映日や上映館が一部に限られる事だったりする事に対する批判のようです。

そういった

「障害がテーマ(というのは間違いなのですが)の映画なのに、障害者への配慮のない作品だ。こんなもの見る価値などない。」

という人たちと、反対側には

「障害者だからって何でもかんでも特別扱いするのはおかしい。字幕あり上映が無いわけではないのに、特別な配慮ばかり求める事こそ逆差別だ。」


という人たちとで、彼らがTwitter等で醜くも罵り合っているというのが概ねの構図でした。この作品をご覧になった方なら、「はて、この構図どこかで見たなぁ」なんて気づかれるかもしれません。




文学的メタ構造


西宮は障害が故に周囲とうまく馴染めず、また親も含めた周囲の大人たちの「無配慮な配慮」により更に周囲との位相の差異がより拡大し、例えば小学生時代の西宮と石田であるとか、西宮と植野の様に、互いが互いの不理解によりいじめがおきました。ただしそういった相互の不理解(ディスコミュニケーション)は、障害のある西宮の周囲のみならず、その他の家族友人教師生徒、あらゆる登場人物間でも徹底的に描かれます。

そしてそれは作中内の表現手法としても表されています。例外はありますが、ほぼ作中で使われた手話表現には字幕がつきません。会話の流れで推測するしかありません。(もちろん手話がわからなくてもシナリオが破綻しない程度に理解できるようにはなっています)


つまり、
・聴覚障害者から健常者への断絶である手話が通じない問題(作中)

・健常者から聴覚障害者への断絶である映画字幕の有無という問題(現実)

というフィクションと現実のスパイラル。作中のディスコミュニケーションが現実に形をなし、そして罵り合うという、聲の形のテーマが現実に降りてくる、文学的メタ構造がここに完成



「劇とは観客自体もその演出の一部にすぎない」

(荒巻大輔/攻殻機動隊SAC)


これは原作の漫画からそうですが、明らかに作者が意図して手話にキャプションをつけていなかったと思われます。映画での字幕上映が限定的であった事にどこまで原作者の意向が反映されたものなのかはわかりませんが、起きた事象として、まさに作者の表現が現実に降りてきたという点において、さしたる問題では無いかと思います。

こうして、作者の描き出したフィクションであったはずのものが現実へと降臨し、我々へまざまざと見せつけられます。さらに加えて殆どの人がその意味を理解できていないという現状、個人的感想を述べるなら絶望的なものを感じます。

2017年2月19日日曜日

下手人

本当に北朝鮮?


第一報を見てから違和感があるんですが、正男の件、北朝鮮がやったと結論付けるの早すぎやしませんかね。事件直後の錯綜する報道の中、女二人死んだとか殺されたとかいや逃走中だとか毒針だった毒ガスだった他にも協力者がいた…等々。事件の状況すら流言飛語が飛び交っていた最中に、下手人だけ北朝鮮という情報だけが確定したものとして報道されていた現状、一体なんなんでしょうね。

中共かもしれないし、KCIAかもしれないし、 CIAかもしれないし、KGBかもしれないし、MI6かもしれないし、モサドかもしれないし、そもそも個人的怨恨という可能性だってあった。犯人が捕まってすらいない段階で北朝鮮が下手人だと確定したかのように報道するのは、流石に恣意的に見えて来ます。まぁ確かに一番怪しいですけど。

つまり推測するなら、実際に北朝鮮がやったのか否か、北が殺そうとする事を予め知っていたのではないか。


ただし、日本というのだけはあり得ないでしょうけど。有り体に言って、他国のVIPを暗殺してでも国益を通すほどの甲斐性があるなら、今時我が国はこんな体たらくにはなっていないでしょうし。

2017年2月18日土曜日

欠けたる望月

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば


藤原道長の有名な句ですが、小学生の頃に日本史で初めて習った記憶があります。恐らく誰しもが「己の権力の絶頂に慢心し、その傲慢さを表す句」といったニュアンスで習ったのではないでしょうか。

この句を読んだ後の道長は、持病の悪化や子供たちの早逝という不幸の後に出家し、10年後の62歳にて亡くなったそうです。その一連の流れをして、「驕る平家は久しからず」といった類の意味で、道長の栄華の絶頂とそこからの転落といった歴史エピソードとしての解釈が一般的だと思います。

しかし、果たしてこれは本当に傲慢や増長した句なのでしょうか。詩歌はその短い言葉のうちに、幾層にも意味を重ね合わせた所が魅力の一つです。字面通りではなく、少し踏み込んでみれば違った解釈が見えてくるような気がします。

ただし、僕自身は
・詩歌の素養は皆無である事
・同様に歴史にも全く知識がなく、道長の人物像について全く知らない事
は申し添えておきます。




●望月から十六夜へ


「望月の欠けたることもなしと思へば」
望月とは満月のことですが、確かに満月のように満ちたりている、と理解したくなります。しかし、満月も当然ながら翌晩には欠け十六夜となり、半月後には新月へと至ります。

つまり道長はこの世の春を謳歌する詩ではなく、これから欠けてゆく己の人生の晩秋を詠んだと解釈できる可能性があるのではないでしょうか。


●この世は俺のもの?


「この世をば わが世とぞ思ふ」
では、ここをどう解釈すべきか。確かにそのまま解釈すれば、「この世界はまるで俺のもののようだ」と聞こえてきます。しかし、この欠けゆく望月の解釈を踏まえれば、違って見えるのではないでしょうか。

つまり、この世=わが世であり、わが世=欠けゆく望月であるなら、欠けゆく望月=この世界の欠けゆく未来と解釈できるかと思います。

つまり、この世界もまるでこれから欠けゆく自分の人生のようだ、と詠んだとも解釈できるわけです。



●欠けたる望月


では、道長が憂いたのかもしれない「この世」よりもはるか未来に生きる我々現代人としては、今僕らが生きているこの時間が欠けた望月、あるいは既に新月であるような世界かもしれないという認識は持ち得ないと思います。漠然とした合意として、過去から未来へと、僕らの文明や人間性は進歩してきているのだ、という意識があるのではないでしょうか。

しかし道長の生きていた時間と、それ以降の我々の生きる時間、どちらがより満月に近いのかは誰にもわからないと思います。僕らにとっては「産業革命以降の機械文明の無い生活など考えられない」と言います。しかし、あるいは彼らからすれば現代こそ「なんて末世、末法な世の中であろうか」と、嘆くかもしれません。


我々から失われたもの、欠けた望月たる僕らの世界。
そんな未来の予感を詠んだ句に見えては来ないでしょうか。


本人に確認しない限り、この正解はわからないとは思います。しかしこのように、一般的に皆がそうであると思っている事も、角度を変えて眺めたり、一歩踏み込めば、違ったものが見えてくるのではないでしょうか。

そういった「みんなそう思ってるけど、違った解釈もありうるのではないか」なんて思ったことを書き綴っていきたいと思います。

そして、当ブログはそれにあやかって、タイトルに拝借しました。
(藤原道長が特別好きだとか、思い入れがあるわけではないです)