2017年7月25日火曜日

岩盤に穴を開けてもいいの?

加計も森友も、下らなくて興味が全くわかないんだけども(※かといって、与党のしてることが正しいとは全く思えない、という事だけは追記しておきます)、一番許せないのは「岩盤規制」と十把一絡げにあらゆる「規制」を、何かの悪性の持病かのように語る風潮は、本当にうんざりする。

そもそも「岩盤」って、その土地の地盤そのものなんですけども。その規制が岩盤ならば、この国家のまさに土台をささえる硬質な地盤であって、それにドリルで穴開けるだとか、ぶち破るだとか言ってる人は何考えてんだ。この国家の基盤をぶっ壊すって言ってるんだけど?社民党だとかその辺のクソ政党と言ってること変わらんよ。

もちろん不要になったり時代に合わなくなったりしている法規制というのは、沢山あるとおもう。それらを日々更新し改良しつづける態度というのは、とても正しい「保守」的思想だと本当に思う。しかし、近年に起きた「規制緩和」を遠因とする事故やら事件やら災害等、数え切れない程に起きているのに、一体どうして未だにこうも「規制緩和論」が幅を利かせ続けているのか、本当に理解できない。

それらを改良するのではなく、ドリルで穴開けるだのぶち破るだのぶっ壊すという種類の人間とは、「それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」(三島由紀夫)

2017年7月11日火曜日

唾棄すべき「スタイル」政治

http://lullymiura.hatenadiary.jp/entry/2017/07/03/185139

以下上記サイトより引用
現時点では、都民ファーストは、政党の系譜として昔から存在してきた「スタイルの党」であると思っています。古くは70~80年代の新自由クラブ、90~2000年代の日本新党やみんなの党などです。自民党が弱った時に出てきて、10年くらいすると役割を終えて消滅してきた政党群です。
小池氏が、政策の中身ではなく、「改革」や「新しい」という言葉を繰り返すのは偶然ではありません。今の都民ファーストにとって大事なことは、自民党的でないこと。古いおじさん体質でないこと。密室政治的でなく、談合的でないこと。もちろん、反対ばかりの左翼イデオロギー的でもないこと。都会的で、多様性を重んじること。
経済思想は新自由主義風味で、安全保障は現実主義風味。けれど、実際に経済で国民に不利益を配分し、安保で戦後的コンセンサスから踏み出すことにはあくまで慎重のようです。具体的に論争のある立場で支持基盤が割れるような判断を好まず、あくまで、スタイルの変化に重きを置く。
私自身、テレビや雑誌の対談で都民ファーストの中心メンバーとお話しする機会が何度かありましたが、「小池さんの国家観が見えない」などと言うと、皆さん、キョトンとされるのです。発想が異なるというか、言葉が通じない感覚なのです。
仮にそれが理解できないのだとすれば、思いっきりプラスに解釈して、スタイルを突き詰めるという価値もあるかなと思うに至っています。つまり、政策の中身の話は追求しない。とりあえず、国民の最大公約数的な立場を取る。その代わり、日本政治の体質改善につながるような、スタイルの改革を徹底する。
(中略)
都民ファーストの躍進は、確かに歴史的なものです。ただ、それは改革ブームの空しい繰り返しの歴史となるリスクを秘めるもの。都民ファーストについて、中身がないと攻撃するのは容易いし、今からでも中身は作っていってもらいたいけれど、日本政治の体質改善につながるようなスタイルを追求してほしい。そんなことを考えた都議選明けでありました。
以上引用



前々から、この三浦瑠麗という人は大嫌いでしたが、改めてそれを再確認。

これだけ、彼女が自分で言う「スタイル」政治というものを理解しておきながら、更にはその結末も見ておきながら、その「スタイルを追求してほしい」なんて、どうして言えるのか。

「スタイル」、「国民の最大公約数的な立場」、つまりは世の軽佻浮薄な空気におもねる政治ですか。「日本政治の体質改善」だって? それこそ土井たか子のマドンナ旋風、新自由クラブ、日本新党、小泉旋風、民主党の政権交代、維新の都構想、都民ファーストの"空洞"政治……等々、これらの彼女の言う「スタイル」こそが、現在日本の政治手法であり、クソッタレな唾棄すべき最低最悪な政治体質であるだろう

自民党的「古いおじさん体質」なんてもはや過去の幻になりつつある。現在日本の政治体質が腐りきっているのは、この彼女の言う「スタイル」政治こそが原因であり、文明国として恥ずかしいレベルの最低な政治劇が行われている根本はココから来ている。

確かに「古いおじさん体質」が碌でもない議論を経て碌でもない決定がなされていることはしばしばあると思う。でもよく観察して欲しいのだけれども、そういう「古いおじさん体質」な政治プロセスによる意思決定が行われた際、その決定がクソッタレであった場合のその理由は、政治的なパワーバランスを原因とする「スタイル」におもねった折衷案である事が大半である様に見える。要は本来的な政治のあり様と、それと相対する非本来的かつ議論が成り立たなくなったこのクソッタレな言論空間のあり様において、「おじさん」達の言葉の持つ正当性とエネルギーが失われた事が起因に見える。概念的なものだし、あらゆる事象が絡み合う "政治的プロセス" において、中々具体例は出せないのが辛いけれども、体感的に同意してくれる人は意外に多いであろう事は確信しています。

その大きな節目は一連の安保闘争などの学生運動であったように思う。「おじさん」達の言葉が力を失ったのは、青臭いガキどもの「スタイル」の潮流に任せるだけのメディアと大衆の間で循環・増幅を繰り返すstand alone complex現象の前にあまりに無力であった事からだと思う。僕の知る限り、あの中、彼らの真ん中で「おじさん」の「おじさん」性を発揮し、ガキどもと戦っていたのは三島由紀夫たった一人じゃなかろうか。

人民の人民による人民のための政治なんてものは存在しない。衆愚の衆愚による衆愚のための政治が行われているだけ。その「スタイル」を突き詰めて何になるのか。馬鹿じゃないのか。本当に馬鹿じゃないのか。