2017年12月27日水曜日

筒井康隆「敵」

※ネタバレあり書評です。






筒井康隆は直木賞を受賞していません。他の文学賞はいくつも受賞しているのですが、あれほどの大家で、もしかしたら最後の「文豪」かもしれない人なのに、直木賞はありません。

SF作家としてデビューし、直木賞の選考自体には何度もノミネートされたそうなのですが、全て落選。その理由も(今の感覚では理解できないと思うのですが)「SFだったから」だそうです。当時のSF作品というのは、文学としては格が劣る「女子供の読むもの」といった感覚だったそうです。今で言えばラノベ的な立ち位置だったのかも。

そんな筒井先生、その恨みをまさに「文学的」に昇華し、「大いなる助走」という作品を書き上げます。その内容がとんでもなくて笑ってしまうのですが、とある作家が直廾賞という文学賞にノミネートされ、受賞するために選考委員の作家達へひたすら屈辱的な仕打ちに耐えながら根回しを奔走するも、あえなく落選し、その恨みから選考委員達を虐殺して回る、というぶっ飛んだ作品でした。

それ以降文学理論を用いてそこらの批評家を斬り捨てながら、「文学部唯野教授」「虚構船団」「虚人たち」「残像に口紅を」等々を書き上げるに至ったそうです。どれも一癖ある作品で、個人的には全て面白かったです。ただしオススメはしません。いつかこのあたりも書評させてもらいたいと思います。



「敵」は1998年出版で、筒井作品としては若干地味であまり話題にならないのですが、個人的にとても好きな作品です。出版社の自主規制に抗議した断筆宣言からの復帰後最初の長編でした。当時筒井康隆60歳代中盤で、かつて「大いなる助走」作中で殺して回った作家たちのような立場になった頃に書かれた作品といえるものです。



●「敵」

主人公渡辺儀助は定年退職した75歳の大学教授で、基本的には作品全体として彼のその日常が淡々と描かれています。地の文が独特で、作中に読点は一切なく、儀助の思考のモノローグと、日々の生き様が描かれます。

彼は聡明な元大学教授として己を律しながら妻に先立たれた老後の日々を一人暮らしています。虚飾を排した「銀齢の果て」(誤字じゃないです)に、気高く生きて誇り高く死のとうする。緻密に描かれるそんな彼の日常に非常に惹かれます。妙な見栄を張った最後を迎えようと望む事すら、ある種の儀助自身の等身大な諧謔なんだろうな、と思います。

特徴的なのが、擬音や慣用語に妙な当て字がされており、最初は「ポマードを蔑たり(べたり)」だとか「匂いを粉粉(ぷんぷん)」といったように、上手く意味と音が当てられた使われ方をしています。そして中盤には笑い声が「悲悲悲悲(ひひひひ)」となり、最後には雨音が「使徒使徒」「死都死都」「歩足り(ぽたり)」と、儀助の心象風景が表れます。


「敵」とは儀助の半ば自覚、半ば無自覚のなかで、彼の「耄碌」として迫っています。彼はある時亡き妻を偲びながら自らの作った妄想の妻と言葉を交わします。

耄碌に近づく過程と自覚しているので最初のうち独言を発することに躊躇いはあったが次第に幻想の妻との対話の快楽を知り自分にそれのみは許して野芽り込んだ。「帰ってきてくれないかなあ。また、お前さんとずっと一緒にいたいんだよ」「無理だわよ」信子が笑う。

廊下を歩きながら低声で「おい。信子」と呼びかけてみたりする。何度か自然に呼びかけているうちにいつかは何気なく衣裳部屋から「何」と言って出てきそうに思うからだ

覚醒と耄碌のはざまで、亡くした妻への愛情ばかりが深まってゆく儀助は以前書いた100万回生きたねこの記事の主人公猫君と白猫の関係を思わせます。ただし儀助は主人公猫君とは違い非本来的に生きていたわけではなく、むしろハイデガー的本来性に近い生き方をしています。(ちなみに作中でもハイデガーは引用され、筒井康隆自身もハイデガーにかなり影響を受けています。)

そうして日々耄碌し続ける自分を実感しながら、
身辺の日用品をすべて綺麗に使い切り銀行預金がみごとになくなり冷蔵庫が空になった時が死ぬときだがその死にかたが重要だ。儀助は安楽に死ぬことができて死後に汚物や血を残さず人にさほど迷惑をかけぬ美しい死にかたがしたいのだ。
として自決するための手段を定めます(詳細は割愛)。 その上で、
(もし死ねなければ)その先にはと言えば二度と面倒な手続きを繰返して死のうという気は起こらず呑便だらりと九十歳百歳まで老醜を晒し他人にさんざ迷惑をけけてから死ぬという儀助の最も嫌いな最後が待っている。

 として、自裁の為の周到な準備と手段を整えその日まで日常を過ごします。(「呑便だらり」も見事で、痴呆の進行を意味した当て字ですね。)

しかしそんな儀助に対し残酷にも「敵」は襲いかかり、儀助は耄碌の度合いを増していきます。そこで描かれるものは、一体どこからどこまでが彼の妄想で、一体何が現実であったのか。

ハイデガー的に自らの死と向かい合う聡明な老人であったはずの儀助と、彼の頭脳を蝕む残酷な「敵」。この作品を初めて読んだのは高校生の頃でしたが、ガキに理解も実感もするべくもないハイデガー的本来性が、今思えばこの作品を通じていくらか自分の中に埋め込まれた作品であったと思います。

これ以降、何か物事を考える時、この儀助的なものを念頭に置きながら考えるのが常となりました。僕にとっては非常に大きな作品です。